篠山軽便鉄道の遺構

こんにちは、よこてんです。
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■ 篠山川に残る構築物

前回は丹波篠山に残る、旧国鉄篠山線跡をご紹介しました。
現在の篠山口駅は、篠山城址や市役所のある中心部からは5kmほど離れていて、その間には篠山川が流れています。春には堤防に並ぶ桜が美しい篠山川ですが、その流れる水の中にちょっと気になる石塊のようなものを目にすることができます。
ちょっと気になる、とはいっても一般の方ならどれを指して言っているのかわからない、となるでしょう。
こちらの写真だともう少しわかりやすいでしょうか。
どうやら橋脚の跡のようですね。道路の橋を付け替えたのか、それともこちらも篠山線の廃線跡の一部なのでしょうか。

現在の篠山口駅から町の中心部に行くには、この篠山川を越えることになります。しかし篠山線は国策線という名目であったためか篠山川を越えることなく町の南側を直線的に福住に向かって建設されました。当時置かれた篠山駅が町の中心部から遠かったのはそのためです。
したがってこの橋脚は篠山線のものではありません。

実は、篠山には篠山線が開通するその以前に篠山口から町の中心部までを結ぶ鉄道が走っていました。建設した理由はもちろん、篠山口駅が町から離れていたその不便を解消するためでした。その名も「篠山鉄道」といい、川の中の橋脚跡は篠山鉄道の遺構となります。

 

■ 離れた駅と市街地を結ぶ交通手段として開業

篠山鉄道は、1915(大正4)年「篠山軽便鉄道」として、現篠山口駅のやや北寄りに位置する弁天から篠山町までの約4kmの区間で開業、以後篠山鉄道と名称を変更、当初西町にあった終点をさらに東側、現在の丹波篠山市役所辺りまで延長、弁天から篠山口へも乗り入れて利便性を向上、最終的に4.9kmの営業路線となりました。

この篠山鉄道は、福住までの建設免許も取得していました。しかしながら建設に着手することなく篠山線が開通した1944年に廃止されます。
実は篠山線と篠山鉄道は交差する箇所があり、本来は後から建設するほうがその区間を高架にしたりして避けるのが本筋ですが、篠山線は国策線の強みなのかなんと平面交差してしまいます。これが廃止の直接的な原因かどうかは結論を差し控えますが。
先ほどの橋脚跡部分の左岸には、このような立派な土台が残されています。
この土台の向こう側には閉店になったパチンコ店があり、この辺りが途中駅の「岡野駅」があった場所ではないかと推察しています。
篠山川からさらに市街地に近い場所まで移動しました。写真右側には「東岡屋」という交差点があります。
写真奥が市内中心部になります。これも推察ですが地方道と並行するこの細い道路が廃線跡ではないかと思っています。

 

■ 篠山と鉄道との相性は

丹波篠山市に限らず、地方都市にはよくあることなんですが、もっと中心部に駅を作る計画はなかったのでしょうか。

篠山口に鉄道がやってきたのは1899年(明治32年)、現在の福知山線の前身「阪鶴鉄道」が尼崎から線路を延ばし篠山を経由、その年に福知山まで開通しています。実はこのとき阪鶴鉄道は、古市から現路線のさらに東寄りのルート、篠山の中心部に向けて路線を延ばすべく打診をしていました。しかしながら反対の声のほうが大きく現路線になったいきさつがあります。
このとき賛成が多ければ、もしかしたら現在この橋脚跡付近を福知山線が通っていたかもしれませんね。

反対の声が多かった理由として、当時阪鶴鉄道の他にもうひとつ「京姫鉄道」という会社の存在がありました。姫路から篠山を経由、そこからは廃止された篠山線と同様に福住を通って園部に至る鉄道で、最終的には京都鉄道(現在の山陰線)に乗りいれて京都に向かうものでした。

現在も城下町の町並みに京都の風情を色濃く残す篠山としては、大阪より京都との関係が深かったためこの路線に強い想いを抱いたのでしょう。「町には鉄道はひとつで良く、しかも京都につながる路線のほうが重要」という考えから、京姫鉄道に期待を寄せたのだと思われます。

ところが「京姫鉄道」は解散してしまいます。阪鶴鉄道のルートはすでに決定しており、結果篠山の中心部に鉄道が通らなくなってしまいました。

その後昭和の時代に、篠山線の開通で京都乗り入れが再燃します。戦時下で東海道線、山陽線が被害を受けた際のう回路として福住~園部間の建設が計画されていました。
しかしこの建設計画も終戦と同時に消滅、それどころか1968年には篠山線そのものも廃止候補に挙げられ京都への鉄路は夢物語となりました。

篠山と鉄道、歴史の中では相性は「良くない」と言えそうですね。

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