駅は想う(1)/ 「敦賀港駅」

こんにちは、よこてんです。
いつもご覧いただきありがとうございます。

今回は福井県敦賀市にやってきました。

■ 古くからの交通の要衝

敦賀は福井県嶺南地方の主要都市で、江戸時代は北前船の寄港地として、以後は重要港湾という位置付けとして栄えました。このため敦賀に鉄道が開通したのが1882年。これは明治15年ですから、前回の武豊線よりも早いということになります。わたくしが驚いたのは、中山道の工事が難航を予想していたそんな時代に、滋賀と福井との県境にトンネルを掘って敦賀に到達させたこと。柳ケ瀬トンネルの完成は1883年、1352mは当時の最長トンネルだったそうです。もちろん本州で日本海側に敷かれた線路ではここが最古です。それほどまでに当時はこの敦賀港が重要視されたのでしょう。
アーバンネットワークを担う新快速が敦賀まで運転されたのは記憶にあたらしいところです。そして2023年には北陸新幹線が延長され、大きく変貌をとげようとしています。

■ 「みなと」に向けて延びる線路


現在の敦賀駅は北陸本線が通り、また、東舞鶴に向けて小浜線が延びていますが、実はもう1本路線が出ていたのをご存知でしょうか。
残念ながら昨年廃止となった敦賀港線がその名前のとおり港に向けて走っていました。
営業キロ2.7kmで終点の「敦賀港」駅です。最後は貨物専用線でした。列車はやってきませんがコンテナ基地として現在も使用されています。
この敦賀港駅こそが明治時代、鉄道が目指した場所だったのです。

■ 大陸と連絡する国際列車が発着していた

「敦賀港」という駅名になったのは大正時代で、それまでは「金ヶ崎」という駅名でした。この建物は大正時代の「敦賀港」駅舎を再現したものです。ずいぶんとハイカラな建物ですね。ここまで着飾ったのには理由があります。実はここに国際列車が発着していたのです。

敦賀が重要港湾であったことは、先に述べました。ここ敦賀からウラジオストクに向かう連絡船が運航されていました。その連絡船を利用してシベリア鉄道でモスクワ、ワルシャワへと、大陸を横断してヨーロッパに向かうことができたわけです。1912年、「欧亜国際連絡列車」が東京~金ケ崎間を走り始めています。
現在なら気が遠くなるほど時間を費やしたのでしょうが、当時、船だけなら40日要したところ、このルートだと15日で到着したそうです。

 

■ 大きなランプ小屋が健在


半田駅のランプ小屋つながりではありませんが、ここ敦賀港にもランプ小屋が残っています。こちらのほうが大振りですね。半田駅のものよりも古く1882年につくられたものとされています。アーチ型に組まれた入口も趣がありますね。
ランプ小屋内には、ごらんのような展示物があります。
これは、機関車に付けられたランプ(前照灯)です。現在、機関車や電車の前照灯は電灯ですが、当時は灯油が使われていました。前照灯は2~3個、赤色と緑色を組み合わせて使用され、それにより列車が、旅客列車なのか貨物列車なのか、あるいは、臨時列車なのか等々、判別できるようになっていました。
もう一室には、ごらんのような資料が飾ってありました。
そして、このランプ小屋をつくっている煉瓦のひとつひとつをじっくり見てみると、こんな発見があります。

■ レンガに残る遊び心

煉瓦にいろいろな文字がありますが、実はこれ、煉瓦職人の烙印なんです。職人のサインなんでしょうが、なんとなくその当時の遊び心がみえて楽しいですね。

敦賀港界隈をもう少し探索してみたいと思います。

 

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