伊勢電が駆けた道 3
こんにちは、よこてんです。
いつもご覧いただきありがとうございます。
前回は海山道でJRのタキ貨物をご紹介させていただきました。今回は海山道のすぐ隣り、四日市界隈を歩いて鉄分に触れたいと思います。
伊勢電が駆けた道1
伊勢電が駆けた道2
■ 近鉄四日市駅の不思議
近鉄四日市駅です。海山道駅から乗った車両は2050系。3両で組成され、近鉄の車両のなかではわずか2編成の小所帯です。海山道発車時は「四日市行き普通」で表示されていますが、四日市からはそのまま「準急名古屋」行きとなって運転されます。
いま乗車してきた区間を含め、次の川原町までは1956年に建設され、それと同時に現在の近鉄四日市駅(当時は近畿日本四日市駅)が誕生しています。ではそれまで近鉄四日市駅はどこにあったのでしょう。
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四日市の鉄道の歴史を紐解いてみますと、複雑な事情が見えてきます。
前回にも触れましたように近鉄名古屋線は伊勢電の前の社名「伊勢鉄道」によって海山道まで1919年に、四日市までは1922年に開通しています。ただこの時の路線は現在とは異なりJR線に沿うかたちで北上、伊勢鉄道の四日市は現在のJR四日市に隣接するかたちで開業、貨物の受け渡しなども行われていました。したがって1956年までは近鉄四日市駅はJR四日市駅に隣接していたことになります。
ところが、現在近鉄四日市駅とJR四日市駅は距離にして1kmほど離れています。隣接していた駅がどうして離れてしまったのでしょうか。
利用する側にしてみれば駅が隣接しているほうが便利です。しかしこの区間には線路形態に関しての大きなネックがありました。それが前回にもふれました「急カーブ」だったのです。
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■ アーケード街に変貌した廃線跡
近鉄四日市の南改札口を出ると「中央通り」という幅の広い通りがありJR四日市駅とほぼ直線で結ばれています。実は今回訪れてみたいのはこちらとは反対側の北改札口側になります。
北改札口を出ると「ふれあいモール」と名付けられた歩行者メインの賑やかな通りに出ます。店舗が並びアーケードが付いたいわゆる「商店街」ですが、実はこの商店街こそがかつての伊勢電の線路跡でした。
■ 急カーブその1「天理教カーブ」
ここは北改札口を出て左に進み、最初の角を右に曲がった場所です。名古屋方面を向いています。道路が近鉄名古屋線の高架に向けて延びているのですがおそらくこの道路が伊勢電の線路跡になるかと思います。仮にこの道路が線路だとして、先ほどの「ふれあいモール」に合流するにはほぼ直角に曲がらなければなりません。事実ここに急カーブが存在して「天理教カーブ」と呼ばれました。コインパーキングの向こう側、少し木々のある場所に天理教の教会があり、この名前が付けられたのだと思います。
■ 伊勢電の廃線跡は別の鉄道の廃線跡!?
先ほどの位置から少し戻って「ふれあいモール」との分岐点に立っています。四日市のゆるキャラでしょうか「子入道」の名前の付いたレンタサイクルの看板がありますね。
このレンタサイクルの左側には近鉄湯の山線が通っています。湯の山方面から走ってきた電車はこの手前で右にカーブして近鉄四日市駅に進入します。前身は「四日市鉄道」という名前で762mmの軽便鉄道でした。1913年に諏訪駅まで開業、1916年には四日市まで延伸開業しています。当時現駅の近鉄四日市は存在しませんのでJR四日市に近い地点になります。伊勢電が1922年でしたからこちらのほうが先輩になります。
仮に湯の山方面から近鉄四日市に右にカーブを切らず真っすぐ線路を延ばしてみると、このアーケード街を通っていくようなかたちになります。即ち、伊勢電が走る以前にここに四日市鉄道が走っていたことになります。
では、諏訪駅はどの辺りにあったのでしょうか。
JR四日市方面に進むとアーケード街が交わる地点があります。やや遠めで恐縮ですが諏訪駅は写真の右奥、自転車が数台停まっている地点にあったそうです。現在は「SANSI」という名前のスーパーになっています。緑十字の旗の見えるあたりを旧東海道が横切り、旧四日市宿もこの付近に広がっていてまさに四日市の中心に位置する駅でした。実際のところ伊勢電が乗り入れ後は、この諏訪駅が伊勢鉄道時代の四日市よりも現在の近鉄四日市に近い存在になるのかもしれません。
現在近鉄四日市駅1階部分には、762mmのかつての近鉄内部線・八王子線だった「四日市あすなろう鉄道」が発着しています。この鉄道の前身は「三重軌道」と言い、この鉄道もまた「諏訪前」という駅名で諏訪駅に隣接するかたちで路線を延ばしていました。
諏訪駅があった場所を過ぎ、アーケード街を通り抜けた地点になります。横切る道路は国道1号線です。
振り向いた写真がこちらです。廃線跡はJR四日市駅方面へと延びています。
先ほど四日市鉄道が四日市まで路線を延ばしたことにふれましたが、三重軌道も国鉄に貨物の受け渡しが便利なように、さらには船運もあったのかもしれません、線路幅が同じ762mmであったことから諏訪で合流して四日市に向けて路線を延長しています。
■ 「第三の四日市駅」が存在した
近鉄四日市から20分ほど歩いたでしょうか、行き止まりに「ハローワーク」の建物が見えてきました。この建物の裏側はJR四日市駅の構内で写真の右側には駅舎、ヤードが広がっています。
このハローワークの場所が四日市鉄道・三重軌道の四日市駅跡で、行き止まり駅のかたちで造られていたそうです。
ちなみに、写真中央に道路に面して茶色いレトロな建物がありますが「三和商店街」という廃墟マニアの間では有名なスポットだそうです。
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JR四日市駅はこの位置です。先ほどのハローワークの建物が奥に見えています。
おそらくこの背後に伊勢鉄道の四日市駅があったのではないかと思います。そして、憶測になりますが伊勢電は四日市駅を出発後、この駅舎の前を通ってハローワークの前で左に急カーブして諏訪方面へと延びていたと思われます。
JR四日市駅を通り過ぎて南の方向、海山道方面に歩いてみます。黄色い事業用車両の向こう側、現在の伊勢鉄道(伊勢電の前の社名伊勢鉄道とは無関係)の車両が停車している場所がJR四日市駅です。
左側に見える道路がおそらく伊勢電の廃線跡にあたるのではないでしょうか。
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■ 急カーブその2「善光寺カーブ」
再びハローワーク近くに戻ってきました。この辺りから左急カーブが始まっていたものと推測できます。
先ほどの「三和商店街」の前に善光寺という名のお寺があり、「善光寺カーブ」という名前が付けられていました。
■ 急カーブが生まれた事情
なぜこのような急カーブが、しかも二か所も生まれてしまったのでしょうか。
伊勢鉄道は1926年に熊澤一衛が社長に就任して伊勢電気鉄道と社名を変更、近代化への道を歩みはじめます。電化はもちろん伊勢進出も、さらに四日市から桑名へ向けての路線延長もこの時期でした。ただ桑名延伸の際、四日市は市街地であったために用地買収が思うようにはかどらなかったとされています。
伊勢電は四日市鉄道、三重軌道のどちらの株も100%手中に収め傘下とします。そして四日市~諏訪間に路線を持っていたこの用地を利用して延長を図ったのです。
結果、四日市鉄道はこの区間を廃止してその用地を伊勢電に譲渡することになります。
その後伊勢電は積極的経営が仇となり参急と合併、さらには関西急行鉄道、近畿日本鉄道と社名は変わってもこの区間は残されたままでしたが、1956年、新線に変更してようやくカーブを解消、さらには伊勢湾台風を機に線路幅も1435mmに改軌、大阪~名古屋間の直通運転が開始され今日に至っています。
今回の訪問先は確かに「伊勢電が駆けた道」なんですが、あまり駆け抜けられなかった区間だったかもしれませんね。