私鉄ローカル線に癒されて 3

こんにちは、よこてんです。
いつもご覧いただきありがとうございます。

前回は近鉄生駒線を訪れました。生駒線の終点王寺からわずかに200メートルほど離れた場所に新王寺駅があります。今回は、その新王寺から西田原本までを結ぶ、近鉄田原本線を訪れます。

近鉄田原本線は、新王寺を起点に近鉄橿原線田原本に近い西田原本まで全線単線の10.1キロの路線で、近鉄のなかでも唯一、他の路線と共用する駅を持たない孤立した路線形態です。王寺と新王寺は先述した通りで、西田原本と橿原線の田原本も距離にして7~80メートル離れているでしょうか。西田原本に到着する直前に並走する近鉄橿原線と連絡線でつながっているものの、車両の送り込みに使われるのみで直通運転など営業での使用はありません。
近鉄電車では珍しいダークグリーンの車両がやってきました。8400系になります。実はこの車両リバイバル塗装車で、かつてこの路線を走っていた600系が纏っていたカラーを田原本線開業100周年記念ということで復活させました。

田原本線の歴史は古く大正7年に開通しています。この路線の前身は田原本鉄道。開通時は大和鉄道という社名でした。路線は10キロそこそこですがなんとも壮大な社名です。この大和鉄道、最終的には近鉄に吸収合併されるわけですが、近鉄の歴史のなかでも極めて重要な鍵を握る鉄道会社でした。そのことは、田原本線を乗り終えたあと触れたいと思います。

この路線も生駒線同様にベッドタウン化が進行、新王寺を出て大輪田周辺は住宅が目立つ沿線風景ですが、2つめの佐味田川を過ぎるあたりから緑が多い風景へと変わってきます。池部は馬見丘陵公園への最寄駅で、広大な敷地には古墳が点在しています。次の箸尾は交換設備を持つ駅です。大和川水系の天井川をいくつか越えて但馬、黒田と停車したのち西田原本が近くなるころ左手に近鉄橿原線と並走しますが、その地点に橿原線と田原本線を結ぶ連絡線があります。住宅が多くなって列車は西田原本に到着します。
西田原本駅です。やや離れて写真右手に橿原線の田原本駅があります。
こちらが田原本駅西口になります。雨の日でも大丈夫なように屋根付きの通路が整備されています。
こちらは東口。古い町並みが今でも健在です。鉄道が敷かれる前は川運で栄えたとされています。
戻って、西田原本駅を眺めてみます。今は使われていない古いホームもあってローカルムードたっぷりです。でもなんとなく終点の雰囲気がありません。
実はこの路線、大和鉄道時代にはここからさらに桜井まで線路が延びていました。現在は道路へと変わっています。近鉄橿原線は西大寺から路線を延ばし、この大和鉄道より5年遅れで田原本にやってきたため、田原本を出るとオーバークロスして道路になった廃線跡を越えて八木・橿原神宮前方面へと走っていきます。さらに近鉄にとってこの会社が重要だったのは、桜井から先、名張までの免許を取得していたことでした。

能勢電鉄、水間鉄道とご紹介してきましたが鉄道が目指す目的地に、「神社・仏閣」があります。寺社詣でが当時の娯楽であり、参詣客の輸送が見込めるからです。その最たるものといえば伊勢神宮でしょう。近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)は伊勢神宮を目指して大正9年、現在の大和八木から宇治山田までの路線を出願しました。しかし誰もが伊勢神宮を目指すのは当然の成り行きです。翌年、大和鉄道が桜井~名張間の免許を出願します。他にも現在の近鉄南大阪線の前身、大阪鉄道も出願していました。競願となり、結果免許を取得したのは資本金100万円のまさかの大和鉄道でした。実際のところ大和鉄道が伊勢を目指したかどうかは定かではありませんが、大軌は「なんで?」という感じだったに違いありません。

そこで大軌は大和鉄道を傘下に収めようと大部分の株式を取得、大和鉄道の経営権を握ってしまいます。ちなみに大軌の資本金は当時で4000万円、勝敗は誰が見ても明らかです。大軌は大和鉄道名義で宇治山田までの免許を取得、さらに大軌の子会社、参宮急行電鉄に免許を譲渡して建設を進め、念願の伊勢進出となったわけです。
鉄道史のなかで踏み台のようにされた大和鉄道は戦時下に不要不急路線ということで西田原本~桜井間が休止、その後、同区間は廃止となります。さらには前回訪れた近鉄生駒線の前身信貴生駒電鉄と合併、のちに近鉄が信貴電を吸収合併、現在に至っています。

しかし、なぜ大和鉄道に免許を下したのか不思議なところですね。当時、気まぐれで免許を下していたという説もあるようですが、大和は国のまほろば、「やまと」というこの鉄道会社の響きに、伊勢と大和を結びつける、そんなロマンを感じたのかもしれませんね。

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